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はるはる・5

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 樹齢百年を超える木々が、まるで柳のようにたわみ、軋み、風に流されて震えている。横殴りに叩き付けられる雨と暴風が、天井を不気味にぎしぎしと鳴らしていた。
「っ……ぷぁっ……」
 窓枠を潜り抜け、どうにか身体を引き出すと、びしゃり、と板の間が濡れていた。
 風に耐えきれず裏返った傘は骨の大半が逆向きに折れていた。もうまともに役に立つ日は来ないだろう。たった5分でものの見事に濡れねずみになった僕は、身体に張りつく濡れたレインコートを引き剥がし、雨の染みた上着を脱ぐ。
「ああ、景、ここにいたのか。……って、ずいぶんとまあすごい有様だな」
「あー、うん。ちょっと気になったから見てくるだけのつもりだったんだけど。……ゆゆさん、着替えある?」
「もちろんだ。少し待っていろ」
 夕は一度廊下の向こうに引っ込むと、すぐにタオルと着替えを持って駆け戻ってきた。シャツ一枚になった僕をわしわしと頭から拭いてくれる。
「また倒れられてはかなわないからな」
「あはは。信用ないなぁ」
「君には前科があるからな。……なんにせよまだ本調子じゃないだろう。無理はするな。前回の件では私も椎野先生にきつく言われたからな」
 さすがにそこまで言われれば、黙って頷くしかない。
 僕はタオルを受けとって、ごうごうと揺れる窓を見た。雨風にたわむ窓枠は、今にも外れてしまいそうなくらいにがたごとと激しく軋んでいる。
「上見てきたけど、とりあえず大丈夫そうだよ」
「そうか、なによりだ」
 鈴音と社長の修理で、西館の雨漏りはすっかり改善されたようだった。あの状態でこんな嵐に晒されずに済んだのは実に僥倖、と言うべきだろう。
「ゆゆさん、お風呂のほうは?」
「さっき雨戸は閉めてきたが、この分だと表は酷い有様だろうな。さすがに今からは入れないぞ?」
「明日は大掃除かな。手伝うよ」
「ああ、頼む。……さて、いつまでもそんな格好では風邪をひくぞ。お茶でも入れて置くから、部屋まで来い。ちょうどさっき一之瀬嬢が枕を抱えて逃げ込んできたところだからな」
「そだね。そうする」
 くすくすと笑う夕に、僕も顔にも笑みが浮かぶ。
 嵐の夜。きっと他のみんなも、誰かと寄り添ってこの不安な夜を過ごしているのだろう。窓の向こうの底知れない闇洋をちらりと眺め、僕は自分の部屋を後にした。


 (続く)

はるはる・4

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 閑散とした廊下を、遠く誰かの足音が遠ざかってゆく。
 この部屋のいいところはのびのびと手足を伸ばして眠れることだけれど、こうして一人で横になっている時はあまり嬉しいものでもない。
 ぼんやりと頭の中が澱んでいるような、穏やかな倦怠感。心地よいけれど、どこか空虚で不安を覚える――そんな静寂があたりを満たしていた。
「……景?」
「ん。起きてるよ」
 襖をそっと開けて夕が部屋に入ってくる。小さなお盆にはガラスの器がひとつ載せられていた。
「具合はどうだ?」
「……良くもなく悪くもなく。いつもどおりだよ」
「それがいつもでは困るだろうに」
 はふ、といつものようにため息をついて、夕はスプーンに橙色のミカンを載せる。
「あーん」
「できるなら自分で食べてくれ。……と言ってもどうせ君のことだ、聞くはずもないか」
「もちろん」
「誇らしげに言うことではないだろう?」
 睨まれた。
「その、まあ、なんだ。……今日は特別だぞ? いちおうは私のせいでもある……のだしな」
「……ん」
 口に入れてもらった甘酸っぱいミカンの缶詰をむぐむぐと噛みながら、僕は目を閉じる。喉をすべり落ちてゆく懐かしい味が、じんわりと頭の奥に染み込んでいくみたいだった。
 缶詰なんか食べるのは久しぶりだけど、ずっと昔、誰かにこうして食べさせてもらったことがあったのかもしれない。
「鈴音は?」
「もう帰った。ついでに屋根も見てもらったが、だいぶ痛んできているらしい。ひとまず今日は応急処置だそうだが、来週にでも親方と一緒に来るそうだ」
「そっか。社長も忙しいんだね」
「初めから頼めばすぐに来たのにと怒られてしまったよ。見栄っ張りの怪我人にくれぐれもよろしくだそうだ」
「厳しいなぁ……」
 ぺたり、と顔を覆う。
「もうすぐ夕飯だが、起きられそうか? 景」
「ん……そだね。たぶん平気」
「そうか。できたら呼びに来る。待っていてくれ」
「あ、いいよ。下で待ってる。ひとりだと退屈だし」 
 布団を押しのけて立ち上がる。けれどまだ視界は緩やかに傾いていて、
「お……? あれ、れ……」
「ああもう、無理をするなと言っているだろうにっ」
「あはは……ごめん、ゆゆさん」
「まったく。しっかりしてくれ」
 そっと借りた夕の肩は、ミカンと同じ甘い匂いがした。


 (続く)

はるはる・3

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 空は今日も穏やかな秋晴れ。山の彩りもいっそう鮮やかになっているようだった。
 お昼まであと2時間弱。なんとなくお腹がすいたなぁ、などと思いつつ軋む廊下を歩いていると、西館の4階一番右の部屋で腕組みをしている夕を見つけた。
「どうかしたの?」
「ああ、景。丁度良かった。……見てくれ」
 彼女は視線で天井の染みを示す。
「屋根の雨漏りの件だが、どうもまた具合が悪いようだぞ」
「うーん。前にちゃんと直したつもりだったんだけど。やっぱり素人日曜大工じゃ限界があるのかな。……芽衣ちゃんたち何か言ってたっけ?」
「別段そんな事はなかったと思うが。どこからか雫が回り込んでいるのかもしれないな。雨の後に起こる雨漏りというのもあるそうだ」
「へぇ……なるほど」
 夕と一緒に天井を見上げ、ああでもないこうでもないとしばし議論。
 先にその結論に辿り着いたのは、僕のほうだった。
「ねえゆゆさん、ここの天井裏って見た事ある?」
「……そう言えば、初耳だな」
 僕よりもずっとここで長く過ごしている夕が知らないとなれば、多分住人の誰も知らないことに違いない。葛原翁あたりは余計な好奇心全開で覗いたことがあるのかもしれないけれど。
「……うむ。確か、祖母が押入れの天井から上が見れるようなことを言っていたな」
「見てみる?」
「そうするか。……すまないが景、少し手伝ってくれ」
「ん。もちろん」
 僕だって興味がないわけじゃない。夕と二人で押入れを開け、中の客用布団を畳の上にどけて空にする。
「ああ、僕が見るよ」
「いや、大丈夫だ。私が――」
「いいから。少しは男らしいところ見せないとね」
「景、そうではなくてだな……」
 なおも食い下がる夕をさえぎって、脚立を使って押入れに登り、埃臭い天井板を押し開ける。とたん、ずっと暗闇に押し込められていた濃密な天井裏の空気がどろりと流れ落ちてきた。
「どうだ? 見えるか?」
「うーん……暗いなぁ」
 懐中電灯の光の輪は、ぼんやり天井裏の輪郭を浮かび上がらせるだけだった。長い歳月を経て、ここに閉じ込められた闇が凝縮して固まってしまったかのよう。
「あのへんになにか見える……ような……気がしないこともないような」
「はっきりしてくれ……ん?」
 ――みしみしばきべき。
「あ」
 ――と、思ったときには遅かった。
 雨漏りですっかり脆くなっていた天井裏が、身を乗り出していた僕の体重を支えきれずに抜けたのだ。
「景っ!?」
 一瞬の無重力が身体を包み、暗転する意識の中、夕の悲鳴だけが――耳の奥に――


 ………………。
 ……。


「それで伸びちゃったわけですか? 情けないですねぇ」
「面目ないです……」
「もちょっと身体、鍛えなさいね、景くん」
「はい……」
 固い布団、見慣れた天井の自分の部屋。駆け付けてきた椎野先生に手当てをされながら、僕は少しばかり後悔するのだった。


 (続く)

はるはる・2


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 うららかな午後。すっかり朱に色を変えた紅葉が、幾つもの小さな紅を重ねて空を覆っている。時折吹く風はだいぶ冷たいものではあるけれど、これもまた秋の風情と思えばそう嫌なものでもない。
 お昼もすぎて一息つけば、ゆっくりとまぶたが重くなってくる。
 これはいけない、と思って湯飲みに残ったお茶を啜れば、随分冷たくなっていた。
「んー……暇だな……」
「つくづく極端だな君は」
 ごろん、と居間に寝っころがって天井の梁を数えていると、自然とそんな言葉が口をついた。
 文庫本に視線を落としていた夕が顔を上げ、ふぅ、と吐息して見せた。
「表を見ろ。せっかくのいい天気だぞ。そんなに暇しているなら少しは表でも歩いてきたらどうだ?」
「どうも気が進まないんだよね。……芽衣ちゃんでもからかって遊ぼうかなぁ」
「あの子はまだ学校だ」
「あれ、そうだったっけ?」
 四階に間借りしている少女の名を上げると、夕はさらに呆れたように額を押さえた。文庫本を閉じ、眼鏡を帯に通して僕に向き直る。
「景、君はなんでもかんでも自分と同じに考えすぎだぞ。そもそも、まっとうな若者なら水曜日の午後は普通、働くか勉強しているかで忙しくしているものだ。
 そもそも、あの子はまだ小学校だぞ。犯罪者になりたくなければ幼女を誑かすものじゃない」
「やだなぁゆゆさん。僕がそんな物騒なことするように見える?」
「どうだかな。君の言葉は信用ならないからな」
 どこでどう機嫌を違えたのか、夕は少々棘のある視線で僕を見る。……ええと、いったい今度はいつヘマをやらかしたものか。
「幹也さん……も旅行中だっけ。葛原翁は?」
「楓さんに連れられて買い物だ」
「へえ。二人揃ってなんて珍しい。じゃあ一之瀬さんのところにでも行ってお茶でもごちそうになるよ」
「彼女も留守だ。昨日、新都のほうまで模試を受けに行くと言っていた。……君も聞いていたはずだろう、景?」
「えーと……」
 なぜだかこれっぽちも覚えていない。奇妙なこともあったものだ。僕が首をひねっていると、夕は額を押さえてため息をつく。
「頭痛? 今年の風邪は性質が悪いから気をつけてね?」
「……ああ、嫌味でない分だけなおさら性質が悪いな」
 いい加減疲れたとばかりに会話を打ち切って、再び文庫本を開く夕。
 僕も再び天井に視線を戻して、梁の数を数える作業に戻る。何度やり直しても不思議と数が合わないのがどうにももどかしかった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……ねえ」
「…………」
「ねえ、ゆゆさん」
「…………」
「ゆゆさんってば」
「……なんだ?」
「やっぱり暇だから、いちゃいちゃしようよ」
「……………………なんなんだ君は」
 夕は呆れ顔で僕の額を叩いた。


 (続く)

はるはる・1

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 ――春の日は遠く遥か、けれどこの幸せな日々をともに。



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「景、……景、いるのか?」
 ぎぃ、と倉の扉が押し開けられる。
 重く軋む蝶番の音に合わせて、黴臭い空気がかき混ぜられる。古びた床を軋ませながら響いてくる足音に、ふと鼻を掠めるほのかな甘い香り。
「……やっぱりここか」
 ふ、と吐息。
 そうして僕は、ようやく自分が呼ばれていたことに気がついた。
 机から視線を上げれば、割烹着姿の夕が、呆れた表情で僕の顔を覗き込んでいる。
「探したぞ、景」
「あぁ……ごめん、ゆゆさん。気付かなかった」
 まぶたの裏に鈍い痛みを感じ、僕はこめかみを擦りながら伸びをひとつ。
「またなのか?」
「ん。ちょっとね、気になっちゃって」
「熱中するのも結構だが、あまり根を詰めすぎるな。椎野先生にも言われているんだろうに」
「ん……そうだね」
 気付けば、ずいぶん身体も冷えていた。まだまだ暖かいと思っていたけれど、いつのまにか窓の外の風景も彩り鮮やかになっている。いつの間にか訪れた冬の足音は、早足で季節を追い越していってしまったようだ。
「君の返事は当てにならないからな。いつからここに居たんだ?」
「ええと……6時くらい?」
「十分だ。いい加減にそろそろ一息いれるべきだぞ」
 手を添えてくれる夕にありがとうを言いながら、僕は彼女に続いて立ち上がる。
「学問の秋も結構だが、他にもするべきことはあるだろう?」
「食欲の秋、とか?」
「まあ、芸術やスポーツとは無縁か。君らしいといえば君らしい。……さて、ではご期待通りそろそろ昼だが、なにか希望はあるか?」
「えーと、特には」
「君はいつもそればっかりだな。作るほうも張り合いがなくて困る」
 いつものように、夕は腰に手を当てて溜め息。
「ゆゆさんは?」
「……まあ、実のところ私も同じなのだがな。献立を考えるだけで精一杯だ。何か食べたいものがあっても、自分で作っているうちに段々そんな気もなくなるものだしな」
「そうなんだ。難儀だね」
「そういうことは自分で料理するようになってから言ってくれ」
「そうだね」
 夕に続いて階段を下りながら、ぐっと背中を伸ばした。座り続けだった身体に溜まっていた疲労が、ぱきぱきと音を立てながら抜けてゆく。
「半年前に比べたら、三度三度、きちんとごはんを作ってもらえるだけで天国だからさ。なんだかこれ以上高望みしてたら罰が当たりそうで」
「…………」
「……ゆゆさん?」
「……いや、まあ、……その、なんだ。……いちおう、味にも気は使っているんだ。少しは気にしてくれると助かるが」
「ん……、ごめん。そうだね」
「……まったく、君は。つくづく酷いやつだな」
 呆れたように、夕は笑った。
 今日も空は穏やかな秋晴れ。うららかな日差しと、冷えた空気の中に、古びた12時のチャイムが鳴っていた。



 (続く)