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紅楼夢8

#10/9追記
 当日はサークルスペースまで足をお運びいただきありがとうございました。
 ご挨拶させていただいたサークル様、突然の訪問で申し訳ありませんでした。
 次のイベントは11月の秘封オンリーとなります。




 10/7の東方紅楼夢8にサークル参加します。
 6号館L-13b「折葉坂三番地」でお待ちしています。

新刊:「袖振り合うも化生の縁」 A5折本 40ページ 100円
 藍様とケンカをして飛び出した橙がマミゾウさんの下で化術とか金融のイロハを学んだりしつつ、自分がなぜすきま妖怪の式の式であるかを考えたりするお話になります。
 紅楼夢8表紙


 今回の表紙イラストは「九十九のキセキ」のはいばね様にお世話になりました。



 少し先の話になりますが、京都の秘封オンリーに申し込みました。
 科学世紀のカフェテラス
 こちらもよろしくお願いします。


 ↓以下、紅楼夢8のサンプルとなります。
 ▼

『藍様のわからずや!
 どうせ藍様は、私のことなんて要らないんだ!!』

 は、は、と荒い吐息が知らず口をつき、紅葉の中に儚い白を刻む。胸に燻ぶる憤りと共に、橙は森の中を走り続けた。早鐘のような胸の鼓動はなお激しく、全身で脈打っているかのよう。野生の滾りに任せて遮二無二疾走を続ける橙は、いつしかヒトガタでいるのも忘れて、両の手を前脚のように地につけていた。
 四つ足になって苔生した倒木を飛び越え、二本の尻尾を唸らせて傾いた身体のバランスを取り、枯れ枝と朽葉を蹴散らして。赤いスカートが梢を散らすのも構わずに、なお速く速くと手足に力を込める。
 ――どこへ。どこでもいい。息が上がり、黒い尻尾が毛を逆立て、耳の裏側まで血が昇ってぐるぐると沸騰する。今はただただ本能のまま、頭の中を熱で塗りつぶし、何も解らなくなるまで走っていたかった。
「――――ッ」
 そもそも、自分が主の満足のいくような働きのできない未熟者だなんてことは、一番橙自身が良く分かっていることなのだ。橙はまだ人の姿を取れるようになってまだ百年の半分も過ぎていない。藍と比べれば、自分は髭も生え揃わない子供のようなものだ。
 一人じゃまともな式も打てず、猫型の時の癖はぜんぜん抜けておらず、人を化かすのだって失敗続き。
 でも、けれど、だからって。
 大好きな藍様の役に立ちたいって気持ちは、橙の胸の中、一番大切な場所にちゃんとある。
 それを否定されるなんて、絶対に嫌だった。
 見覚えのある茅葺き屋根が視界に入り、靴底ががさりと落ち葉を踏み締める。
 手足は熱を帯び、吐き出す息は白く、小さな肩が上下に揺れる。走り続ける身体がマヨヒガの境界を越えたのを感じ、橙はようやく脚を緩めた。。
「……はぁ、っ……」
 家々の間の広場にどさりと身体を投げ出す。ぜいぜいと大きく上下する胸に手を当て、しばし荒い息を繰り返す。地に付けていた手のひらは泥に汚れ、白い袖には青黒く苔と草の汁が染み付いていた。
 マヨヒガの中、一番大きな庭と陽当たりの良い縁側を持つ邸宅が、橙の寝起きする塒(ねぐら)である。庭に生える樹齢数百を超える大木の木陰は橙のお気に入りのひとつで、いつもはここに来れば嫌なことを忘れることができた。
 けれど今日は、その効果も今一つだった。
「…………」
 ようやく呼吸が落ち着いてくる。それと同時に、自分の感情の手綱も握れず、我を忘れて獣じみた振る舞いをしてしまったことへの後悔が膨らみ始めた。
「ぅうぅ~~ッ」
 収まらない苛立ちと共に、足元に転がっていた桶を蹴飛ばす。苔の生していた桶の裏側に潜んでいた虫達が、突然の日の光に驚いて逃げ出してゆく。
 じんと重い衝撃。桶を蹴飛ばした爪先がずきずきと痛み始めていた。
「…………っ」
 せっかく堪えていた涙が、また溢れそうになって――橙はぐしぐしと服の袖で顔を擦った。袖口に染み込んだ草の汁がつんと鼻の奥を刺激し、惨めに緩む目元を憤りと共に擦り付ける。
 見渡すマヨヒガは夕日の朱色に沈み、山の端に落ちる陽と共に、虫の声がかすかに聞こえはじめている。
 終焉と静寂を感じさせる秋の色彩の中、穏やかな縁側の陽だまりはあっという間に薄れ、夕闇の中に消えてゆく。
 そんな庭の中にぽつんと取り残されて。怒りも露わにぴんと立っていた二股の尻尾は、へにゃりと力を失いぱたりと地面に倒れ込んだ。
「はぁ……」
 今日、何十回目かになる、溜息。
 傾きかけた夕陽の下で、橙は途方に暮れた。
 がさりと近くの茂みを揺らし、マヨヒガに棲む猫達が顔を覗かせる。彼等は戻ってきた橙の様子がいつもとは違うことを察し、案じるように足元に身体を寄せてきた。
 黒、白、三毛、虎縞、斑模様。黒タイツ越しに感じる毛皮のくすぐったさに、橙はようやく表情を緩めた。
「……心配してくれてるの?」
 にぁお、と賛同の声。マヨヒガの長を自負する橙だが、実のところここに棲む猫達の中には、手のかかる仔猫の保護者気取りで橙に接する者も少なくない。
 それでも今は彼等の心使いがありがたかった。
「ありがと」
 猫達が身を寄せ作る毛玉の中で、橙は黒タイツの膝を抱えて座り込んだ。りいりいと虫の音を聞きながら、膝の上に頬を押しつけ、呟く。
「……藍様の、ばか」
 耳の奥、自分の投げつけた酷い言葉が反響する。
 橙は、それから逃れるようにぎゅっときつく、眼をつぶった。

◆ ◆ ◆

 ――きっかけは些細なものだったのだ。
 言い訳するつもりはないけれど、橙だって幻想郷の妖怪を区分けした時に、チルノやルーミア達と一緒くたにされてしまうことを不当だと思っているわけではない。
 ガチンコの弾幕ごっこの戦績だっていい勝負だし、駆けっこでも大体同じくらいでへばってしまうのだし、テストの点数も似たようなものだ。
 ことさらに、自分が特別だなんて意地を張る気はない。
 でも。チルノ達の遊び仲間に、橙が含まれていないことが多いのは、決して彼女達と一緒にいるのが苦手だからじゃない。
 まず絶対にあり得ない事だと分かっているけれど、それでも。万が一――いや、億の億乗分の一くらいの確率で、紫様や、大結界になにかがあったとして。
 その時は橙もきちんと、八雲の式の務めを果たさなければならないから、だ。
 だから、今日の朝に八雲のお屋敷に向った時、いつものように結界の点検と修復に出かけようとしていた藍に、付いて行きたいと申し出たのだって断じて藍を困らせたり、邪魔したりしたかったわけじゃない。
 ちゃんと、橙なりの理由があってのことだ。
 それなのに――

『済まないね橙、ちょっと今日はは忙しいんだ。たまには私じゃなく、他の子たちと遊んでおいで』

 そんな風に、まるで、他に友達がいない橙が、わざと藍を困らせているみたいな言い方はないんじゃないかと思う。
 たしかに橙もいつも良い子ではないかもしれない。きちんと宿題を済ませているわけじゃないし、お留守番を言いつかった時に、紫様の分のおやつを勝手に食べてしまったり、お使いの途中でつい寄り道をしてしまったりしたこともあるけど。
 いざという時の事を心のどこかに留め置くくらいには、橙は幻想郷一の大妖怪、八雲紫の式の式であることを自認しているつもりだった。
 ――だった、のに。
(本当に、ただの〝つもり〟だったのかなあ……)
 少なくとも、橙の努力を、自分の主人はそうは捉えていてはくれなかったのだ。すっかり元気を失って垂れ下がった耳と尻尾を、古びた縁側にぺたりと這わせて。
 すっかり自信を喪ったすきま妖怪の式の式は、うにゃあ、と自己嫌悪の鳴き声を上げた。
「どうしよう……」
 今さらのように押し寄せる後悔の念に押されるように、くうくうとお腹の虫が鳴る。そう言えば、お昼も食べずに飛び出してきたのだ。
 今日の晩ご飯は何だろう、とつい考えてしまってから、橙は慌ててぶるぶると首を振った。
 八雲のお屋敷で、三人揃って食べるご飯は美味しいけれど、あんなに酷いことを言って飛び出してきたのだ。いまさらどんな顔をして戻れるというのだろうか。
 橙が八雲のお屋敷を訪れるのは数日に一度くらいで、紫様が冬眠する以外の季節は、マヨヒガで独りで暮らしている。けれど、もうあそこには戻れないかもしれないと考えてしまうと、背中がぞっと冷たくなるような不安が押し寄せてくるのだった。
 いつのまにか、自分が八雲の式になる前はどうやって暮らしていたのかを思い出せなくなっていることに気付いて、橙は静かに愕然とする。
「…………はぁあ……」
 再度の溜息。にゃあ、と足元に擦り寄ってきたマヨヒガの猫達に、橙はポケットの中の公魚(わかさぎ)の煮干をぽいとばら撒き、残りをぽりぽりと口に運んだ。
 結局。……意地を張って出てきてしまったのだから、できること、するべきことは二つ。
 今からでもおとなしく、お屋敷に戻って謝るか、自分が八雲の式としての覚悟があることを、藍にもきっちりと示してみせるかだ。
 頭の中の冷静な部分は前者が正しいと言っていたけれど、橙はどうしてもそれを選ぶ事ができなかった。
「でも、示すって言ったって……どうすればいいんだろ?」
 まるっきり八方塞で、橙は途方に暮れる。
 分からなかったら人に聞け。主の教えがふと頭をよぎるが、なんだか今はそれにも素直に従い難い。意地をはり通すなら、全部自分で決めたのだと胸を張って答えたいものだ。
 尻尾を左右にゆらし、むむむと考え込むことしばし。
「……そうだ!」
 橙の頭をよぎったのは、最近できた妖怪寺に招かれたという、外来の大妖怪――
 主である妖狐・八雲藍の宿敵たる、妖怪狸の噂だった。

◆ ◆ ◆

 命蓮寺。
 化主たる聖尼公のもと人妖平等を掲げ、積極的に妖怪の救済と保護を行うという、幻想郷でも特異なこの寺は、人里にほど近い場所にあった。公然と妖怪の出入りを認める一方で、これまで幻想郷には目立たなかった仏門であり、その立地も相まって、どこかの神社よりはずっと繁盛していようだった。
 敷地の塀の上に差し掛かる樹の枝上に身を潜めて、橙はじっとその様子を窺う。
(むー……)
 門前に沢山の地蔵尊が並ぶ参道には、参拝に訪れる人間達の姿が途切れない。妖怪達の出入りも割合頻繁で、耳にしていた以上の人気ぶりだ。
 ごく簡単な式を乗せた紙飛行機を飛ばして確認したところ、寺の中では複数の妖怪達が共同生活を営んでいるらしい。
 妖怪寺なんてどうせ荒れ放題だろうと決めつけていた橙だが、目の前に実物を見てさすがに考えを改めざるを得ない。隙を見てこっそり忍び込むなどという甘い考えは捨てねばならないだろう。
「……例の狸って、どこにいるんだろ」
 耳を済ませ、目を凝らして境内の様子を窺う。橙が使える式はまだ初歩の初歩で、主やその主のように、打った式を自在に自分の眼鼻や手足として操る事できない。ならばと寺の周りで暮らしている猫たちに話を聞こうとしたが、どういうわけか寺の周辺にはほとんど猫が居らす、あちこちを探し回ってようやく見つけた連中も、酷く怯えていて橙の顔を見るなり逃げ出し、まるで話にならなかった。
 かくして調査はあっさりと暗礁に乗り上げ、橙はこうして息を潜めて樹上から様子を窺うくらいしかできずにいた。もう半刻ばかりもこうしているが、いまだにそれらしい相手の影も掴めていない。
「狸だから、誰かに化けてるとか……かなあ?」
 遠くマヨヒガの橙にまで噂の聞こえてくるほどの大妖怪なのだ。さぞ大きな顔をして居座っているのだろうとたかを括っていたが、どうも当てが外れたらしい。
 ほぼ半日を無駄に過ごし、橙はじれったさに手近な枝を噛む。元々、猫の性質としてあまり長い間ひとつの事に集中しているのは得意ではないのだ。
(んぅ、いいや。もうちょっと近くまで――)
 痺れを切らした橙は、早々に境内に忍び込む事を決意した。機を窺い、塀の中へ飛び移ろうと身をかがめた時――
「――こんなところで何をしている」
「にゃ!?」
 突然に背後に現れた聞き覚えのある声に、橙はびくりと竦み上がった。
 慌てて振り向いた先、一面の金色が目に飛び込んでくる。
 頭上の枝上、不機嫌そうに鼻に皺を寄せた藍が、豊かな尻尾を風に広げ、橙を見下ろしていた。
 ――驚く暇もなかった。
 迂闊にも跳び退ろうとした橙の脚が、むなしく空を掻く。反射的に爪を立てようとした枝から、汗で手がずるりと滑る。バランスを崩した身体は枝の上を滑るように宙へと放り出された。
 飛べばいいという当たり前の発想も出てこないまま、橙は枝の上から転げ落ちた。
「うにゃあああ!?」
 猫の本能が身を捻って体勢を整えようとするが、猫の姿ならともかく、人間の女の子のサイズでそれをするには枝の高さと時間が足りない。
 かくして橙は塀の上を跳ねて寺の敷地へとダイブ。掃き清められた境内を突っ切って、どしんごろごろずるべしゃびたんっ、と僧坊の裏手に虫干し中の座布団の山に頭から突っ込んだ。
「あぅぅ……」
 日向臭い座布団に埋もれ、お尻だけ突き出した無様な格好で目を回す橙。
「ぷっ、くくく……くくくっ、あーっはっはっはっはっは!!」
 そこへ、宙空からけたたましい笑い声が響く。
 くらくらする頭を持ち上げて空を見れば、そこには上下さかさまになって胡坐をかき、宙をふわふわと漂いながら腹を抱えて笑う藍の姿があった。
「うくくっ、カッコ悪ぃー。猫のくせにまともに受け身もできないのかよー? みっともないなー。くくくっ……ねえ、今どんな気分? どんな気分っ?」
「……藍、様?」
 牙を覗かせ、笑い過ぎて目に涙すら浮かべながら、藍は橙の顔を覗きこんでくる。
 普段の落ち着いた物腰とはあまりにも違うその姿に、橙がしばし呆然としていると――藍はにやにや笑いを浮かべたまま、自分のこめかみの辺りにずぶりと指を突っ込んだ。
「……!?」
 あまりの事にもう声も出ない。
 目の前の藍はそのまま、ぐりぐりと頭の中をこね回す。やがてずるりと抜かれた指には、二十センチほどの小さな、翼の生えた蛇のようなものが握られていた。
 蛇がぽんと音を立てて爆ぜると、同時に藍の姿がゆらりと歪み、見たこともない黒衣の少女へと変貌する。
「くくく、ばぁーか。騙されてやんのっ」
 口元に生え揃った牙を覗かせ、下品な笑顔でけたたましく笑う少女に、すっかり事態から取り残された橙はぱちくりと瞬きを繰り返すばかりだ。
「こぉら、ぬえ!! またアンタはそんなとこで何やってんの!!」
 境内の向こうで、尼僧姿の少女が声を上げた。おりょ、とそちらを振り向いた黒衣の少女は口を尖らせ、背中に生えた非対象の羽根で橙を指し示す。
「なんだよ、怪しい奴がいたから捕まえてやったんじゃないか。感謝しろよなー」
「あのねえ……雲山!」
 肩を怒らせた尼僧が、手に握った輪を振るう。ごうと風が渦巻き、どこからともなく黙々と湧き起こった白い煙が、たちまち見上げるほどの入道となって屹立する。
 尼僧の指示に無言で頷いた入道は、黒衣の少女へと飛びかかる。しかし彼女もさるもの、巨体に似合わぬ素早さで迫る入道の大きな手から巧みにすり抜け、けたけたと笑いながら空へ身を翻した。
「こらぁ、待ちなさいっ!!」
「へーんだ。待つもんか!!」
 とどめとばかり橙を見下ろし、べぇーっ、と思い切り大きく舌を出してから、どこへともなく姿を消す。
「――困ったもんね、聖がいないからって……」
 走り寄って来た尼僧が苦々しげに顔をしかめ、腰に手を当てて溜息をつくと共に、境内のあちこちから何の騒ぎかと寺の住人達が集まってくる。
「どうしたの、一輪?」
「何の騒ぎだい、まったく……」
 見ての通りよ、と少女の消えた方を視線で示して応じる尼僧。どうやらこの騒ぎはいつもの事であるらしく、集まって来た一堂もまたか、と諦めと呆れの入り混じった表情。そんな中、彼女達の視線は自然、その場に取り残された橙へと向けられる。
「……うにゃあ……」
 またたく間に注視の輪の中心に晒され、橙はいつの間にか陥った窮地に、天を仰いで小さく鳴いた。

◆ ◆ ◆

「……なるほど。身に覚えのない咎で性質の悪い人間に狩られそうになっていたところ、妖怪を救う寺と聖の話を聞きつけ、一体どんな場所か様子を見に来たと。……一応、筋は通っているね」
「う、嘘なんかついてないよっ」
 向けられる胡乱げな視線に、橙は拳を握って反論する。
 境内の中央、ちりちりと尻尾の先が焦げるような緊張感の中、橙は周りを取り囲む寺の妖怪達にぶんぶんと手を振って己の潔白を主張した。
 第一印象は控えめに言っても最悪で、お世辞にも歓迎されている雰囲気とは言い難い。
「勘違いしないでくれ、筋は通っているねと言っただけだよ。君の言い分を疑うかどうかは別問題だ」
 橙を詰問するように立ち塞がるのは、大きな耳をした鼠の妖怪――ナズーリンという少女だった。細長いロッドをとんとんと肩に当て、片目をつぶって値踏みするような視線を向けてくる。座っている橙と大して目線の高さも変わらないような小柄なくせに、態度は随分と尊大である。
「だから、嘘なんかじゃないってば!!」
 ネズミなんかに良い様に言わせていては猫妖の名折れだが――いまは耐える時だ。橙はぐっと堪えて、無害で哀れな妖怪を装おうとする。
 こうなってしまった以上、なんとかしてこのままこの寺に潜りこんでしまうしかないと、橙は腹を決めていたのである。
 自分の哀れな身の上と、噂の妖怪寺にやってきた理由を即興で一席ぶちあげたのもそのためだ。
 いつでも逃げられるように様子を窺いながら、さりげなく周囲に視線を巡らせる。ざっと見渡した中には、相変わらず化け狸の姿は見当たらないように思えたが、なにしろ化けることにかけては狐よりも優れたともされる妖怪だ。さっきみたいにいつ何時不意を打たれるとも限らず、油断はできない。
(それとも、あいつが狸だったのかな? ……あんまりそんな感じじゃなかったけど)
 ぬえと呼ばれていた少女の姿を思い返し、橙はわずかに首を傾げる。
 そんな橙の内心を知ってか知らずか、周囲を取り巻く妖怪達は、互いに侵入者に対する妥当な処置の相談を続けていた。
「ムラサ船長、一輪、どう思う?」
「うーん……」
「……そうねえ」
 反応は捗々しくない。半信半疑――いや、四信六疑といったところか。
 中でも一番、警戒を強めているのがナズーリンだ。鼠らしい猜疑心の強さで、不信感を隠すことなく、大きな耳を揺らしてじいっと橙の顔を覗きこんでくる。
 彼女の妙な迫力に、仮にも猫と鼠という関係も忘れ、気圧されるままに、橙は硬い唾をこくりと飲み込んだ。
「やはり、君は――」
「ほらほらナズーリン。そんなに怖がらせなくてもいいじゃないですか。ここを頼って来た子に不躾なことばかり言うものじゃありませんよ」
 助け船はすぐその隣から来た。
「ご主人様。ですが、こう次々に新顔ばかりだと――」
「命蓮寺は来るもの拒まずです。聖には後で私から説明しますから。……橙さんと言いましたっけ?」
「は、はい」
「私は寅丸星。この寺の――まあ、ご本尊の代理のような事をしています」
 寅丸星と名乗った彼女は、そっと身をかがめ、橙に視線を合わせてにこりと微笑む。高い背に短い髪、黒と黄色の縞模様。ふわりと鼻先をかすめる匂いは、確かなる強者の証。
(わ……!!)
 威風堂々たるネコ科の王者の佇まい。初めて目にする虎妖の迫力に、橙は我知らず姿勢を正し、ぴょんと丸まっていた背中を伸ばして畏まった。
「私の一存だけでは決められませんが、どうかそう固くならずに。いろいろ辛いこともあったのでしょうが、もう安心です」
 そう言って、星は優しく、橙の頭を撫でた。
 訳もなく子供扱いされて、少しくすぐったいのと気恥ずかしいのとがない交ぜになり、橙は俯いてしまう。
「……むう」
 それを見たナズーリンが不機嫌そうに眉を潜める。
「いいのかいご主人、本当に。そんな勝手をして」
「いいんじゃない? 表だって反対する理由もないもの」
「……まあ、ぬえが驚かしちゃったことについては謝らないといけないよね。あとでとっちめて聖にお説教、お願いしないと」
 結局――星のその一言が、橙の扱いを決めていたらしい。話は決まったとばかり、口々に、皆が立ち上がる。
「「「「命蓮寺へ、ようこそ」」」」
 声を揃えての歓迎に――
 橙は内心、えらいことになっちゃったなあと思いながら、ぎゅうっと落ち着かない胸元を握り締めた。


 ▼

 命蓮寺の朝は早い。
 ……というか、本当に洒落にならないくらい半端なく早い。
 まだ空が白み始めるよりずっと前から起き出して、氷みたいに冷たい井戸で水浴びを済ませ、身繕いをして朝の勤行が始まる。冷たい板の間に座らされて、2時間近くも眠気と戦いながら退屈な念仏を聞かされる。もれなくヤマビコによる音響完備だ。ようやく終わったと思えば慌ただしく朝餉の用意。肉も魚もなく、一汁一菜にも届かないような質素な食事を味気なくかき込むと、続けて僧坊の掃除に洗濯、さらに本堂の掃除と広い庭の手入れと、あとからあとから雑務が続く。その合間には修行と経典の暗誦が入り、本当に目の回るような忙しさだ。
 何よりも、寒いのがいただけない。
 橙は普段、マヨヒガの縄張りでぬくぬくと布団にくるまっている化け猫なのだ。、隙間風の入り込む簡素な僧坊、堅い煎餅布団での寝起きはとても耐えられず、質素で厳格な新天地での生活はあまりにも馴染まなかった。
「…………ぅうぅ……」
 そんな訳で、命蓮寺での生活三日目にして早くも音を上げた橙は、裏庭の掃除をサボって木陰で潰れているのだった。命蓮寺の想像以上の魔窟ぶりにすっかり委縮し、自慢の尻尾も耳も、毛並みは乱れ艶を失ってくてりとた瀬下がっていた。
 妖怪狸の頭領の調査どころか、雑用に追われて疲れ果て、夜さ寒さで満足に眠れず、なにもできていない有様である。
 こんな生活、まともに付き合っていたら本当にどうにかなってしまいそうで――文句のひとつも言わずに粛々とこの生活を続けている他の妖怪達のことが信じられない。
「はあ……」
 すっかりめげながらも、いまだに逃げ出せずにいるのは、いまだ耳の奥に強く残る、藍の言葉のせいだ。
「……負けるもんか」
 短いながらも、ここでの暮らしで分かったことがいくつか。
 まず、命蓮寺の化主である聖白蓮は、しばらく寺を留守にしているということ。行き先のやりとりで霊廟がどうこうと聞こえはしたが、詳しい理由までは分からなかった。
 その間、寺を代行として治めているのが毘沙門天の化身であるという星。橙の大先輩である(ネコ科という意味で)本物の虎妖であるらしいのだが、信じられないことに、とても肉を喰らう獣とは思えないくらいに仏門に馴染み、本物の仏のように立派な立ち居振る舞いをしていた。その清徳さを見込まれて毘沙門天の代行すら務めるくらいだというから相当だ。
 そして他の妖怪達――舟幽霊の村沙水蜜、入道使いの雲居一輪と雲山、毘沙門天の使いとして逗留しているダウザーのナズーリン、最近入門したばかりというヤマビコの幽谷響子。主に寺で暮らしているのはこの辺りの面々であり、他にも出入りしている妖怪は数多い。その中に人間の信徒が居ないというのは少し以外ではあった。
 皆親切で信仰に篤く、決して悪い妖怪ではないのは橙にも分かるが、人にあらざるものが仏の教えを守り、それを説く人間に従うというのは、まるで飼いならされているようで、どうにも橙には健康的には思えない。
「……って、そんなのはどうでも良くて!」
 命蓮寺が無視できない勢力であることは十分すぎるくらいに把握できるほど、橙は命蓮寺の修行体験コースに没頭させられる羽目になっていたが――そのせいで橙はいまだに最初の目的である化け狸の姿も居場所も見つけられていない。
「そうだよ、こんなことしてる場合じゃないんだってば!」
 辛い修業の繰り返しに麻痺していた思考能力が、日向ぼっこのおかげでようやく復帰してくる。とっとと当初の目的を達して撤退すべきだった。
(まだ見かけてないってことは、まだ行ったことのない所に居るはずだよね……)
 幸い、真面目に修業に付き合っていたせいで今は一人だ。橙は箒を放り投げ、落ち葉の残る庭をあとにする。
 その時。
「どこへ行くんだい?」
「んにゃ?!」
 いきなりの背中からの声に、橙は飛び上がった。
 瞼を半分引き下ろした冷やかな視線を向けられ、恐る恐る振り向く。大きな耳を動かしながら、現れたナズーリンは、足元に転がる箒を拾い上げた。
「そっちは本堂だよ。君の持ち場はここだろう?」
「…………え、えっと……」
「やはり警戒していて正解だったね。どうにも怪しいと思っていたんだ」
 ナズーリンは不愉快そうな表情を隠そうともせずに、小さく鼻を鳴らした。彼女の身長よりも長いL字のロッドをするりと腰後ろから抜き放って、その先端を橙に突きつける。
「な、なんのこと、かな?」
「とぼけても無駄だよ。とっくに正体は割れてるんだ、観念したまえ。境界の賢者、すきま妖怪八雲紫の式の式!」
 ざわり。橙の周囲に無数の気配が生まれる。
 波のように押し寄せる――小さな小さな灰色の毛玉。数百ではきかない数のネズミ達が、包囲網を敷いて橙を取り囲んでいた。いつの間にか逃げ道を塞がれ、橙は境内のはずれに孤立させられていたのだ。橙は知る由もないが、これこそが寺の周辺から野良猫達を駆逐し、心傷(トラウマ)レベルで萎縮させた原因である。
「大方、すきま妖怪の指示だろうね。聖の不在を狙って悪巧みでも仕掛けに来たというところか。……この寺が妖怪に甘い事を知って、正体を偽れば潜り込めるとでも踏んだんだろう?」
「違うよ、私は、そんな――」
「まだ白を切るつもりかい、調べは付いているんだ!」

 ――視符「ナズーリンペンデュラム」。

 問答無用とばかりスペルカードが提示される。一方的な命名決闘の宣言。橙が受ける意志をみせるよりも先に、賢将は符を発動させていた。
 ナズーリンの周囲に顕現した巨大な正八面体――銀色のペンデュラムが轟音を立てて旋回を始める。実体化した巨大な質量は、高速で回転し、蛇がくねるような軌道で加速し、橙へと打ち出される。
 周囲を構わず薙ぎ払うペンデュラムに、橙は慌ててその場を飛び退いた。轟音を伴い旋回する鋭い尖端が地面がごっそりと削り、大きな穴を穿つ。
「……ち」
 ナズーリンはチェーンを繰りながら軌道を変え、旋回するペンデュラムを次々に橙へと叩き付けてきた。綺麗に積み上げていた薪の山が吹き飛び、橙の胴の三倍はある太さの大木がへし折られてゆく。
「ちょ――やめて!! 危ないじゃないっ!!」
 弧を描くペンデュラムから距離をとり、橙は叫ぶ。
「ふふん、臆したのかい? 八雲の式が聞いて呆れるね」
「なんだとーっ!!」
 鼻で笑われ、さすがの橙もかちんときた。あからさまな挑発だが、ネズミが相手なら話は別だ。馬鹿にされたままなんて猫の沽券に関わる。
「殺(シャ)ァ――――――ッ!!」
 憤りと共にたっぷりと因縁を乗せた視線を叩き付け、橙は鏃弾の斉射を叩きつけた。着弾を無視して身を撓め、低く地を蹴る姿勢から右の爪でナズーリンの脚を狙う。
 が、念を込めた爪はがきんと硬い手応えに弾かれる。ナズーリンが手元に引き寄せたペンデュラムを盾にして橙の一撃を受け止めたのだ。鏃弾も同様に防がれ、賢将には傷一つない。
「んな……!?」
「やれやれ、考えの浅い猫は扱いが楽でいいね」
 目を剥く橙を、次のペンデュラムが襲う。咄嗟に身を引いたものの完全には避け切れず、巨大な質量に跳ね飛ばされて、橙の身体は庭を跳ねた。
 んぎゅ、と地面に押し付けられた顔が土に擦れ、口の中に砂が入る。泥にまみれた顔をぬぐい、じゃりじゃりと舌を擦る不快な味をぺっぺと吐き捨てて、橙は頭上を振り仰いだ。
「ははっ、どうした、威勢だけかい?」
「このっ…!!」
 ざわりと尻尾が逆立った。牙を剥いて唸る橙に対し、悠然と宙に陣取るナズーリンはペンデュラムの数を倍に増やし、その旋回速度をさらに上げる。幾何学的な動きで並ぶ八面体は橙の打ちこむ弾幕を残らず防ぎ、弾いてゆく。
(――攻撃じゃなくて、防御用のスペル……!!)
 符の性質を見誤った事に橙は歯噛みする。安い挑発に引っかかって、真正面から突っ込んだ所にものの見事にカウンターを食らった格好だった。
 弾幕勝負において、相手のスペルがどんな仕組みで、どんな狙いをもつのかを観察し見極める事は、勝率を上げるために何よりも大事なことだ。そんなものは耳が萎れるくらい何度も聞かされてきたことで、今更忘れるようなことじゃないはずなのに――脳裏をよぎる藍の教えに、橙はぶんぶんと顔を振る。
 周囲を取り囲むネズミ達は、徐々にその包囲を狭めていた。吠えて威嚇する橙にもまるで動じず、一糸乱れぬ動きをとるネズミの軍勢に、橙の旗色はみるみる悪化する。旋回するぺンデュラムに邪魔されて上空に逃れる事もできないまま、橙は逃げ場を失っていった。
 苦し紛れに再度繰り出した楔弾も、再びペンデュラムの分厚い壁に阻まれた。
「おっと、危ない危ない」
 喧嘩を吹っかけておいて守りに入る彼女の慎重さに軽く呆れる橙。だが、旋回する多面体の間に潜りこむことができず、橙は反撃の糸口をつかめない。
 優位を得ても、賢将は攻撃の手を緩めなかった。戦列を組んで押し寄せる弾幕と、左右から放たれる大玉の連携が、徐々に橙の逃げ場を奪ってゆく。
「くぅ……っ」
 避ければ避けるほど追い詰められる位置へ誘導されている事は分かっているのだが、将棋の詰め手のように精確なナズーリンの弾幕から逃れられず、橙はいよいよ後を失くす。
 再び繰り出されたペンデュラムが、身をかがめた橙の頭上をかすめた。
「さあ、白状してもらおうか! いったい何を企んでいる!」
「~~ッ!!」
 ナズーリンがロッドを軸に一旦引き寄せたチェーンに反動を付けて大きく繰り出した。鎖がじゃらりと音を立て、まるで槍の穂先のように、鋭いペンデュラムの尖端が橙の額めがけ放たれる。圧倒的な質量を持つ穂先に、橙の背中がぞわりと逆立ち、尻尾がびくりと跳ねた。
 そこから先の動作は、殆ど橙の意識を無視して行われた。
 橙(本体)を脅かす危機指数が閾値を突破。警告(アラート)と共に常駐型の防御機構式が待機命令(サスペンド)を解いて活性化。四百三十七万六千行の式が休眠状態(スリープモード)から高速で活性化し、準稼働状態(エコノミーモード)へ移行する。十八次元に折り畳まれた高速演算域(フォミュラメモリ)を展開して自動化動作(マクロ)を次々に実行。橙本人から全身の制御を奪い取り、一次保存領域(ストレージ)に確保(キャッシュ)していた桜点を元に森羅結界を展開した。行動規範(プロトコル)が弾幕のもっとも濃い部分を視認(スキャン)して弾き出し、ばら撒かれた大玉の一帯に霊撃をぶち込み、突破・相殺する。
「……む!?」
 いきなり機動精度を上げた橙に、ナズーリンが顔色を変えた。
 橙は身を丸めて地面を飛び回り、細かく左右に跳ねて大玉を誘導。多少の被弾は覚悟の上、広域を移動して弾幕の密度を下げ、狙いを絞らせないようにしつつ、ステップに複数の罠(フェイク)を織り交ぜ、ナズーリンの動揺を誘う。
 境界の賢者の式、三途の河幅すら計測する八雲藍によって念入りに組み上げられ、打たれ(インストールされ)た式は橙の自我と融け合い、橙本人の意識を阻害せずにシームレスに機能を発揮する。
「く……」
 守備に長けたペンデュラムの制圧力は、近距離での狭い領域で最も効果を発揮する。いくら数を増やそうとも、距離を離されてしまえば空隙が生まれ、回避は容易だ。
 そうして作った時間で橙はナズーリンの弾幕を組み上げる構成要素を演算、物理パターンの関数まで逆解析し、攻撃を構築する変数を特定する。
「――そこだ!!」
 左、右、左、意図的に作っていた回避のリズムを崩し、ペンデュラムの動きを読んで大きく誘導。その隙間へ鋭く身を寄せた。横から縦へ変じる動作に、賢将は対応しきれない。符を抜いて提示と共に、橙は大きく地を跳ねる。

 ――鬼神「飛翔毘沙門天」。

 渦を巻き螺旋を描く楔弾の作る牙がペンデュラムを打ち砕いた。驚きに目を剥くナズーリンの首元を抉るべく、橙が爪を振り被ったその時。
「やめなさい二人ともッ!!」
 大気をびりびりと震わせるほどの音圧すら伴った、境内の大喝が響き渡った。
 同時に、突如天を突くように盛り上がった大きな水柱が、二人の元へと押し寄せた。風呂桶をひっくり返したような大量の水が二人を押し流す。
「ぷあっ!?」
「にゃ!?」
 浴びせかけられた冷水に獣の本能が反射的に恐怖を感じ、委縮した体が自然と丸まった。引っ込んだ爪が虚空を掻き、視界が青く染まる。
 声を上げる暇すらなく、橙は大波に飲み込まれていた。訳も分からないうちに肺の中から息が絞り出され、少女の口からがぼがぼと白い泡が立ち昇る。
 うねる波、渦巻く水流、上も下も分からなくなってゆく中で、準稼働まで起動していた式も見る間に剥がれ、流水にさらわれて溶け落ちていった。
 大波は、現れた時と同様にあっという間に引いていった。
「けほ、げほっ……!!」
 境内の端まで押し流され、びしょ濡れになった橙はぶるぶると首を振って飛沫を飛ばす。突然のことに飲み込んでしまった水はやたらと塩辛く、目に沁みた。全身にへばりつく不快な匂いもして橙は背中を丸めむせながら顔を擦る。。
 その隣、同じく溺れかけたナズーリンが、水を吐いて身を起こし、境内の一角へ声を荒げた。
「っ、ムラサ船長、何をするんだっ――」
「落ち着きなさいっての」
 爪先を立ててしゃがみ、その顔を覗き込んだ舟幽霊、村沙水蜜は手にした柄杓を返し、激昂したナズーリンの顔にぱしゃんと水をぶつけた。文字通り濡れ鼠の彼女が目を白黒させる。
 その隣には、腰に手を当てて呆れ顔の一輪。
「あんたね、こんな所で弾幕なんてちょっとは周りのこと考えなさい。参拝の人が巻き込まれたらどうするつもり? あーもう、ぬえならともかくあんたまでどうしちゃったのよ。聖がいないと誰も彼も好き勝手始めちゃって!!」
「う……」
 冷水と一緒に指摘を受けてようやく頭に昇っていた血が冷めたか、ナズーリンはバツが悪そうに視線を足元に向ける。
「橙さん、大丈夫ですか?」
「けほっ……んぅ、…うぅ……」
 駆け寄った星に手を引かれ、橙はごしごしと顔を擦りながらようやく身体を起こす。
 酷い有様だった。全身ずぶ濡れで泥まみれ。濡れた服が身体に張り付き、尻尾も耳もぽたぽたと雫を垂らす。ぶるぶると頭を振って水気を飛ばし、ひりひりと痛む目を擦る。水の中で目を開けられない橙には、さっきの大波は少々強烈過ぎる一撃だ。
 咳き込む橙の背中をさすってやりながら、星は沈み込む部下に視線を向ける。
「ナズーリン、いくらなんでもこれはやりすぎです。橙さんが何をしたというんですか」
「何を言うんだご主人っ、私は、そいつが悪事を企んでここに潜り込んできたのを――」
「……ナズーリン」
 静かに名を呼ばれ、ナズーリンは口を噤む。毘沙門天の化身を務める虎妖の一言は、有無を言わせぬほどの迫力を伴い、感情に任せた反駁を押しとどめるには十分だった。その対象となっていないはずの橙まで、思わず硬直してしまうほどの。
 鋭い視線に射抜かれて、小さな賢将は喉の奥で唸りを上げる。それでも彼女はそこで泣き出したり、感情のまま橙を罵るようなような無様を晒す事はなかった。
「……すまない」
 小さな声で謝罪の言葉を喉から押し出し、橙に頭を下げる。
 そのままナズーリンはもぞもぞと大きな耳を動かして、決まり悪そうに俯く。
「その、……幾分、感情的になっていたことは確かだけれど」
 猫が相手なんだ、しょうがないだろう、と小さく口の中で言い訳をし、
「信じてくれ、調査自体に私情は挟んでいない。その子が八雲紫の係累であることは間違いないんだ。……ダウザーの威信にかけて、嘘はない」
「え」
 一度は収まりかけた事態がまたややこしい方向に転がり始めた気配がした。ナズーリンは気圧されることなく、ゆっくり皆の顔を見回す。
「八雲紫の式の式。マヨヒガの猫、橙。彼女はその立場も、素性も偽ってここにやってきた。それを怪しむのは、別段おかしなことじゃないだろう? 仮に、彼女が八雲の式を辞めたなりして、困った末に命蓮寺を頼ったというなら、敢えてその事情を黙っている理由はないはずだ。それなのに、どうしてわざわざ嘘を吐いたのか。……彼女をこのまま寺に置くというのなら、それについて納得のいく理由が聞きたい」
「……ふむ」
 至極、もっともな理屈だった。橙が八雲の式の式であるという事実は、ナズーリンが先走った理由としても十分なものだったからだ。先頃の守矢神社の来訪以来、新興勢力が次々に現れている幻想郷に置いて、結界の管理者である八雲の係累は、それだけ重要な意味を持つのである。
 居合わせた妖怪たちの視線が集まる中、橙の顔から血の気が引いてゆく。
(ど、どうしようっ……)
 動機こそ橙個人のものとは言え、ナズーリンの指摘は概ね当たっているのだ。そして、仮にこの状況、橙が自分の独断だと主張しても、妖怪の賢者の式の式という立場は、それだけで十分に主の、ひいては紫の非になりうるのである。
「…………」
 すべて、自分のわがままが招いた事態だ。考えが甘かったことに、橙は言葉を失っていた。
 一番いいのは今すぐに逃げ出すことだが、五人に囲まれ、式も剥がれてしまった状態でそれが可能とは思えなかった。次の手段は藍に助けを求めることだが、それも難しい。
 橙に打たれた式が剥がれれば、そのことはすぐに主である八雲藍の知るところとなる。緊急性に迫られれば藍も様子を見に来る可能性もあるのだが――橙が不注意で式を剥がしてしまうことは多く、しかも直前にあんな形で喧嘩別れをしたばかりだ。果たしてそう都合よく事が運ぶのだろうか。
 第一、自分の未熟を棚に上げて、一体どんな顔をして助けを呼べと言うのか。橙にだって、ちっぽけな二股尻尾にかけて、譲れないことはある。
(うぅう……うにゃぁあ……ッ)
 いよいよ袋小路に陥った橙が、小さな頭をオーバーヒートさせかけていたその時。
「……ああ、待て待て皆。ちょいといいかの」
 助けは全く予想外のところからやってきた。
「――マミゾウ?」
 その名前に、橙は反射的に顔を上げていた。
 濡れた髪が張り付く視線の先――のんびりとした声の主は、人数分の折り詰めをひょいと一輪に投げ渡し、鼻の上に乗せた丸っこい眼鏡を押し上げる。
 二ッ岩マミゾウ。橙の探し求めていた、妖怪狸その人である。
「この件、儂に預からせて貰えんか?」
 茶目っ気たっぷりに、ふさふさとした縞模様の大きな尻尾を揺らし、橙の探し求めていた二ッ岩の古狸は、すきま妖怪の式の式が全く予想していなかったことを言ってきた。
「ちょいと前から聞かせて貰ったが、要するにすきま妖怪殿の式を寺においておけんという話のようじゃの。なら、儂の所なら角は立たんじゃろ? ……なあに、皆に迷惑はかけんよ。白蓮ちゃんには、戻ったらまたあらためて話をさせてもらうとするわい」
「し、しかし……」
「いいじゃないですか」
 同意の声を上げたのは、これまでじっと事態を見守っていた星だ。
「肌の合わない相手でも、お互いを理解する上で、適度な距離を保つこともまた肝要です。ナズーリンも、このまま彼女を追い出すよりは却って良いと思いますが」
「……ご主人様が、そう言うなら」
「なら決まりじゃな」
 これで手打ちとばかり、ぽん、とひとつ大きく手を叩き、マミゾウはにこやかな笑顔を浮かべる。いつしか場の空気から毒気は抜け、呆気に取られ流されるままの橙だけが、目を白黒させていた。


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